あるセカイ (記述中)

明確に観測されていない事象は、存在していない、という事を前提として。

2017年に生きるヒトとしては、このセカイは主観でしか知覚することが出来ない。セカイは各個の主観から認識されているだけであり、客観、第三者視点、主観ではないセカイというものは、実のところ未だ誰も観測出来ていない仮定、でしかない。

これは、ヒトが他人のセカイを主観的に観測、体験することが出来ない以上、当然の事ではある。だが、普段生活する中では意識されない。

ヒトは高度に発達した知能によって、他人のセカイ、客観的なセカイを想像できるようになった。他人が同じ規格のヒトであり、同じような機能を持つのなら、セカイはこう見えるであろう、と仮定を持つことが出来るよう発達した。実際には主観の認識しか無くとも、セカイはこうありそうだ、と予想が出来る。教育の上でも、このセカイは主観的な認識だけのもので、他人と共有されているかどうかは未確認だ、などという説明がされる事は、まず無い。

それでもやはり、ヒトがヒトの一個体である以上、仮定される客観のセカイは主観の中からの「創造」であり、実在するかどうかの観測は出来ない。これは近々に革新のありそうな話でもなく、所謂当然の話、である。

ここで話は少しかわる。

セカイが主観でしか認識出来ないのならば、その主観が失われた際、そのセカイはどうなるのか?

消える。

また、ヒトは脳の記憶によって過去の事実、想像の世界を保持しているが、「現在」というモノは一瞬毎、常に過去の記憶に変化していく。「現在」のセカイというものは過去の記憶の積み重ねであり、実体が無いと考えることもできる。

だが、記憶は今のところ、バックアップや共有、複製できる仕組みがないため、本人しか保持する手段を持たない。外部の媒体によって記録する事は出来るが、あくまで補助的であり、記憶は本人だけのものだ。

ではそれが失われた場合は?

やはり、消える。跡形もなく。

つまり、ヒトが死んだらどうなるかという話、セカイが消えるのである、主観的には。

そしてセカイは主観的にしか認識出来ず、記憶も本人にしか保持できない。

よってセカイは、死んだ瞬間に「無かった」ことになる。「始まっていなかった」のと同等になるのだ、主観的には。

主観的には、というところがポイントであり、今現在ヒトは主観以外の視点を持ちようが無いという所に結びつく。別にセカイがいちいち始まっては終わっている訳でも無いとは思うが、主観的にはそれと同等だ。

極論を言えば、ヒトが死んだ後のことはその本人にとっては関係なく、死んだ瞬間にセカイが終局を迎えようが、偉大な功績を残して未来永劫称えられようが、何も変わらない。認識外の、本人にとってはセカイがなかった事になった、セカイですらない場での「何か」でしかない。

ではヒトは生き死にをどう考えれば良いか、などといった事には触れる気は無い。自由に考えれば良い。その主観的セカイはあなただけのものだ。

で。

この先、近いうちに少し面白いことが起こるかもしれない。ヒトは主観でしかセカイを認識出来ないという前提が、人工知能の発達によって変わるかもしれない。

人間の脳の動きを完全に掌握するには、技術的に相当の年月がかかるだろう。しかし、人工知能は電子的に完全に観測できる。観測できるものが意識を持ち、主観的にセカイを認識するようになった場合、

ヒトは初めて「客観的なセカイ」の観測に成功するかもしれない。

と、ど素人ながらにつらつらと書いてみたが、まとまりがつかないので、2017/03/13時点ではここで一旦区切っておこうと思う。ちょこちょこと無駄な更新をするかもしれない。

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